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中村裕博士と障がい者スポーツ

1.ストーク・マンデビル病院留学

 国立別府病院整形外科科長であった中村博士は、1960年2月から約7ヶ月間リハビリテーションの研究を目的にアメリカおよびヨーロッパに派遣されました。1960年5月、イギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターに留学。グットマン博士の指導の下、スポーツを医療の中に取り入れて、残存機能の回復と強化を訓練し治療するのを目の当たりにし強い衝撃を受けました。多くの脊髄損傷患者がこれらの治療・訓練を受け、6ヶ月という短期間の内に社会復帰していたのです。中村博士はこの手法を日本で実践する決意をして帰国しました。

グットマン博士と(ストーク・マンデビル病院にて)

グットマン博士と
(ストーク・マンデビル病院にて)

2.身体障害者体育大会

 しかし、まだ「治療は安静が中心」の日本では、関係者全員が「患者にスポーツをさせること」に反対しました。そんな中、中村博士は自分の患者や医師・体育関係者・県庁・身体障がい者などを熱心に説得し、「大分県身体障害者体育協会」を設立、1961年10月22日に「第1回大分県身体障害者体育大会」を全国で初めて開催しました。また、日本でのパラリンピック開催をひとつの使命と考えていた中村博士は、厚生省(当時)など関係機関を訪れ、東京オリンピック後のパラリンピック開催を説いて回りましたが、反応は芳しくありませんでした。

第1回大分県身体障害者体育大会の様子   第1回大分県身体障害者体育大会の様子
第1回大分県身体障害者体育大会の様子

3.ストーク・マンデビル大会参加

 1962年5月、東京パラリンピックの準備委員会が開かれ、中村博士は第11回ストーク・マンデビル競技大会への参加を強く訴えました。その結果、選手派遣は満場一致で決定されましたが、肝心の旅費がなく、中村博士は自分の愛車を売ってそれに充てました。1962年7月、ストーク・マンデビル大会に国立別府病院(当時)から2名の選手とともに参加、この大会に日本からの参加があったということが世界に大きく報道され、日本の障がい者スポーツへの認識を深めることになるとともに、厚生省もリハビリテーションの推進に力をいれることになってきました。これまでの中村博士の努力が実を結び、翌1963年ストーク・マンデビル病院で開かれた国際パラリンピック競技理事会において、第2回パラリンピックの東京開催が決定されました。

第11回ストーク・マンデビル大会に参加した吉田勝也氏(左)、伊藤工氏(右)と中村博士   第11回ストーク・マンデビル大会に参加した吉田勝也氏(左)、伊藤工氏(右)と中村博士
第11回ストーク・マンデビル大会に参加した吉田勝也氏(左)、伊藤工氏(右)と中村博士

4.東京パラリンピック

 東京オリンピックの興奮冷めやらぬ1964年11月8日、23カ国428名が参加して東京パラリンピックが開催されました。中村博士は日本選手団団長に選ばれ、日本の成績は金メダル1、銀5、銅4で、全体では13番目という成績でした。大会は無事終わりましたが、中村博士は複雑な思いに駆られていました。外国人選手は試合後も行動的で明るく、ほとんどの人が仕事を持っており健常者と同じような生活をしていました。一方、日本選手は弱々しく顔色も暗く、53人中仕事をしているのはわずか5人、他は自宅か療養所で世話を受けていたのです。この格差は、中村博士に「これからは慈善にすがるのではなく、身障者が自立できる施設を作る必要がある」と解団式で述べさせました。また、身障者スポーツの意義について「一般に社会は身障者の能力を実際以下に低く評価する傾向があるが、第3者に彼らの能力を再認識させるよい機会を与えることになりその意義は大きい」と、著書の「身体障害者スポーツ」(南江堂)のなかで述べています。

東京パラリンピック選手宣誓   ポスター
東京パラリンピック選手宣誓
ポスター

5.フェスピック大会

 スポーツを通じたアジアや南太平洋の障がい者福祉の向上を目指して、中村博士はフェスピック大会(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会 Far East and South Pacific Sports Games for the Disabled )開催を提案しました。この大会は競技性もさることながら発展途上国の障がい者スポーツの啓蒙・普及、ひいては福祉の発展という中村博士の熱い願いもあり、ストーク・マンデビル大会のような脊髄損傷者だけの大会ではなく、あらゆる身体障がい者(視覚・脊髄損傷・頸髄損傷・切断・脳性まひなど)を対象としました。1975年6月に開催された第1回大会には18カ国973人の選手が参加し、別府市を中心に様々な競技が繰り広げられました。この大会は概ね4年に1度の開催で、これまでにオーストラリアや香港、神戸、インドネシア、中華人民共和国、タイ、大韓民国、マレーシア等で9回開催されました。2006年、フェスピック連盟はアジアパラリンピック評議会と合併し、アジアパラリンピック委員会と改称し、以後「アジアパラ競技大会」として引き継がれています。

第1回フェスピック大会開会式   メダル授与する中村博士
第1回フェスピック大会開会式
メダル授与する中村博士

6.車いすマラソン大会

 中村博士は以前から別大毎日マラソンへの車いすの参加を要請していましたが、「走るとは二本の足で前に進むことであり、車いすは自転車レースと同じだからマラソンではない」との理由で主催者から断られていました。しかし、車いす単独レースなら陸連も協力するとのことでした。車いすの障がい者にマラソンは危険ではないかという声もありましたが、1977年には第5回別府ロードレースに参加し、9名の車いす使用者が2.7kmを走りました。翌年も参加し完走、長距離走への自信を深めていました。1981年の国際障害者年の記念行事として車いす単独のマラソンを中村博士が提案、県庁はじめ多くの団体の支援によりに第1回大分国際車いすマラソン大会が実現しました。11月1日、14カ国から117名が参加し、大分市内のハーフコース(21.0975km)を走り抜きました。太陽の家からは20名が参加し全員が完走しています。優勝はオーストリアのゲオルグ・フロイント選手で、記録は1時間1分46秒でした。中村博士は大会の開催だけでなく、レース中の選手の心肺機能計測など医学的研究を同時に行いました。翌年アテネで開催された国際パラプレジア医学会に参加した博士は「車いすマラソン競技は脊髄損傷者にとって医学的に優れたリハビリテーション効果がある」と報告しました。1983年の第3回大会からフルマラソンとなり、国際ストーク・マンデビル競技連盟の公認レースと認定されました。現在も世界最大、最高のレースとして毎年大分市で開催され、沿道の市民へ大きな感動を与え続けています。

第1回大分国際車いすマラソンスタート   2012年第32回大会、沿道の声援
第1回大分国際車いすマラソンスタート
2012年第32回大会、沿道の声援

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