故 中村博士について

 中村裕(ゆたか)博士は大分県別府市に生まれ、1951年九州大学医学専門部を卒業後 同大学の整形外科医局に入局しました。

 故天児民和名誉教授の指導の下(もと)、当時未開の分野であった医学的リハビリテーション研究の道を歩み始めました。さらに、英国のストーク・マンデビル病院に留学し、ルードヴィッヒ・グットマン卿の教えを請いました。

 そこではリハビリテーションにスポーツを取り入れ、医師がさまざまな分野の人と連携して、脊髄損傷者の社会復帰を支援していました。このことに衝撃を受けた博士は、身体に障がいのある人の社会参加、特に仕事を通じての自立とスポーツに情熱を注ぐことになりました。

写真 故(こ) 中村裕博士
故(こ) 中村裕博士

 博士は、1964年東京パラリンピックにて日本選手団団長を務め、評論家の秋山ちえ子氏や作家の水上勉(みずかみつとむ)氏との出会いなど数々の経験から、障がいのある人は仕事を持ち自立することが最も必要であるという信念に至りました。そして「保護より機会を!」、「世に身心(しんしん)障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」という理念の下、1965年太陽の家を創設しました。


 太陽の家では、オムロン、ソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通エフサス等日本を代表する大企業と提携して共同出資会社をつくり、多くの重度の障がいのある人を雇用しました。障がいのある人の作業環境の改善や治工具・自助具の導入を進め、障がいのある人の職能を開発し、手作業からライン作業、単純作業から熟練作業や頭脳労働など多くの成果を上げています。

 また、本部のある別府市亀川を中心に、障がいのある人が施設に閉じこもるのではなく一市民として地域と積極的に関わっていくことを目指して、大分県に対して「福祉の街づくり計画」を提唱しました。

写真 工場長たちと中村裕博士
工場長たちと中村裕博士

 パラスポーツにおいては、大分県身体障害者体育協会や日本身体障害者スポーツ協会の設立に参画し、1961年に日本で初めて「大分県身体障害者体育大会」を開催しました。さらに、1975年の第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック大会:現在のアジアパラ競技大会)、1981年の第1回大分国際車いすマラソン大会等を成功に導き、両大会は今日まで引き継がれています。


 一方、国際障害者リハビリテーション協会の職業委員会委員として1981年の第1回国際身体障害者技能競技大会(アビリンピック)や、同協会のレジャー・レクリエーション・スポーツ委員長として1984年の第1回国際レジャー・レクリエーション・スポーツ大会(レスポ)(愛知県)の開催を支援しました。

 また、医師として博士は大分市に救急医療から医学的リハビリテーションを行う二つの病院を経営しました。1979年~1983年国際パラプレジア医学会副会長、1979年第14回日本パラプレジア医学会会長を務めました。

写真 第1回 大分車いすマラソン大会
第1回 大分車いすマラソン大会

 1984年7月23日、英国ストーク・マンデビルで国際ストーク・マンデビル競技大会の開会式がまさに行われようとしていた時、57才の生涯を閉じました。


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