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水上勉先生を悼む

「拝啓 池田総理大臣殿」(「中村裕伝」P120〜P122)より
1963年(昭和38年)6月
写真 1967年11月15日太陽の家にて 東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。ここには約50人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性マヒ、テンカン、奇形などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと園長はいっています。(略)

 ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私が調べたところによりますとだいたい、次のようになります。昭和35年度4百万円。37年度6百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費36万円かかるそうです。現在では合計2千7百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全費用の2割にしかなりません。療育園ではこの不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。(略)

 総理大臣。私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒したからです。政府が、今日までに、あのオシヤ、ツンボや、盲やかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しをくって、収容されている療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子とおなじように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。(略)

 島田療育園の建物は、山を切り崩した中腹の平坦地に、まだ地ならしも完了していない赤土が出ている所です。粗末なていさいでたってみえます。そこへ行く途中の道路は悪く、建物も貧弱で、寒々としてみえるのです。対岸にあるゴルフ場のキャディ宿舎の方がはるかに立派です。白いペンキのちった療育園の小さな窓は格子がはってあります。その窓の中に、手足の動かない子供が50人もいるかと思うと、私はふっと、みどりの芝生を歩いている五体健康の私の身のありがたさに身をひきしめます。そして、やがては、そうした施設に入れて、教育させてやらねばならない私の娘のことに思いをめぐらせます。


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太陽の家創立10周年記念誌 「お祝いのことば」より
1975年(昭和50年)10月5日
写真 第一作業棟オープン あの出発の日に、私は十年後の今日のような世界に誇れる身障者工場の誕生を夢みてもおりませんでした。ただ「太陽の家」は日本ではじめての身障者自立工場ゆえに、たとえ百年かかっても理想の火は消してはならぬと、小雨の中で心に誓ったものでした。ところが、なんと十年で今日のような大発展をみたのです。

 この感慨は、おそらく中心にいて働かれた中村博士の胸中にもあることと思っていますが、私たち博士の介添え役として、多少の力を出し合った皆にとっても、まことに夢の実現としかいいようがありません。ここまで来るには、いろいろなことがあり、いろいろな苦しみがありましたが、挫折ぜすに一路発展への道を進み得たのは、先ず「太陽の家」に入社された身障者社員の克苦の業績によるものであり、それに感動して力を合わせ、募金運動や資金調達に走り回られた理事の諸氏、それに理解を示して協力してくださった無数の人々のおかげというしかありません。

 十年前、大阪の駅構内を歩いていたら、私をよびとめた七十歳ぐらいのおばあさんがいて、「これをどうぞ太陽の家にあげてください」と古い巾着から五百円札を取り出して、私の手に握らせてくださいました。おばあさんは名も言わず雑踏へ消えましたが、「太陽の家」はつまり、そうした名のない人々の熱い支援があって、国を動かしたともいえましょう。

写真 第一作業棟オープン 今となっては、五百円の寄付金はほんのわずかなものですけれど、昔の建物からみると、立派すぎるほどの巨大な高層建築になった今日の「太陽の家」も、実はその礎は名もない人々の寄付によったものであることを、私はいま噛みしめています。 (中略)

 中村博士の大苦闘とともに、十年の歳月は早く来てしまいましたが、さてこれからの事業は大きくなっただけに、またいろいろな試練に遭うことは当然でしょう。またまた辛い時がくるかもしれませんが、そんな時は、私は理事の一人として、十年前に、「がんばってくださいよ。成功させてくださいよ」と言って、五百円紙幣をにぎらせてくれたあの大阪のおばあさんの顔を思い出すことにしようと思います。


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「中村裕を偲ぶ」の「中村裕先生の思い出」より
1984年(昭和59年)12月25日
写真 右から 水上勉・中村裕・高安理事 娘が二つの頃だった。家内の腰骨の一部を切り取って、娘の腰に移植し、生まれつき歩行しがたかった両肢をうけてとめさせ、歩けるようにして下さった。大手術であった。先生はまだ国立病院の外科におられた。扇山の整肢園長も兼ねておられたと記憶する。暢気な父親は、母子を先生にあずけたきりで、東京で原稿に追いまくられていたが、時々別府を訪れては先生の傾蓋に接した。「外国には障害者の自立工場がいくつもあるのに、日本にはありません。病院から座敷牢へ、これでは障害者の問題は永遠に片づきません。福祉対象から自立擁護へ、そういう施設を計画しています」。

 すでには多田先生が助手だったと思う。お二人が青写真を見せて、熱っぽく語られた夢は、日本で最初の重度障害者自立工場建設にあった。何とかリハビリ……という片仮名の仮称だったと思う。病院横に空き地があり、小野田セメントの療養所が売りに出ていた。何とかしてあれを買いとって、根拠地にしたいが、お金がいる。という話である。私は当時、「婦人公論」に「くるま椅子の唄」を連載中で、先生をモデルにしていた。その原稿料を集めて百万円だったか、と思う。先生は先生で、自宅を抵当に入れて工面し、合わせた金三百万円が小野田セメントへの手付金だったと記憶する。

 「太陽の家」という名はどうですか。英語では一般にわかりにくいでしょう、と言ったら、畑田さんもそれがいい、と賛成されて、草の生えていたセメント会社の療養所の入口に棒杭が建てられた。


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創立30周年記念式典パーティーご挨拶より
1995年(平成6年)10月8日
写真 太陽の家創立30周年記念祝賀会 (左より)畑田理事長、石丸元デンソー会長、水上先生、平松前大分県知事 「重度障害者の施設をつくろう。あゆみの箱運動より太陽の家を支援してくださいと中村先生から言われましてね。創立から5年は仕事がなくて本当につらかっただろうと思います。そして、立石さんたちの一流企業が別府の障害者と握手したあの日から太陽の家は蘇生したんです」。

創立30周年記念誌より
1995年(平成6年)10月5日
写真 太陽の家創立30周年記念祝賀会 あれから、早や30年経った。創立当初の、まだ国立病院わきの小野田セメント療養所あとに、太陽の杭が打たれ、木造バラックの作業棟で、くるま椅子使用の5、6人が竹細工のお絞り置き、仏壇、ヤグラ炬燵など作っていた風景がうかぶ。(中略)

 いまも忘れられない光景の一つだが、小野田セメントの古い療養所の建物が手に入って、木工場が出来た時、小雨ふる一日に、別府静整肢園のブラスバンドの園児たちが、テントの中に集まって演奏し、全国からのお客さまを迎えたあの光景だ。これが開所式だった。お客さまたちは、集塵機が買えないために障害者タチが、口にタオルをあてて、ヤグラ炬燵をつくる作業棟を見学されたのである。

 冒頭に、あれからと書いたのは、じつはこの日からという意味である。この日から30年。私は46才だったが、76才になって、中村先生がこの世におられない悲しみを、あらためて噛みしめている。

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