あの出発の日に、私は十年後の今日のような世界に誇れる身障者工場の誕生を夢みてもおりませんでした。ただ「太陽の家」は日本ではじめての身障者自立工場ゆえに、たとえ百年かかっても理想の火は消してはならぬと、小雨の中で心に誓ったものでした。ところが、なんと十年で今日のような大発展をみたのです。
この感慨は、おそらく中心にいて働かれた中村博士の胸中にもあることと思っていますが、私たち博士の介添え役として、多少の力を出し合った皆にとっても、まことに夢の実現としかいいようがありません。ここまで来るには、いろいろなことがあり、いろいろな苦しみがありましたが、挫折ぜすに一路発展への道を進み得たのは、先ず「太陽の家」に入社された身障者社員の克苦の業績によるものであり、それに感動して力を合わせ、募金運動や資金調達に走り回られた理事の諸氏、それに理解を示して協力してくださった無数の人々のおかげというしかありません。
十年前、大阪の駅構内を歩いていたら、私をよびとめた七十歳ぐらいのおばあさんがいて、「これをどうぞ太陽の家にあげてください」と古い巾着から五百円札を取り出して、私の手に握らせてくださいました。おばあさんは名も言わず雑踏へ消えましたが、「太陽の家」はつまり、そうした名のない人々の熱い支援があって、国を動かしたともいえましょう。
今となっては、五百円の寄付金はほんのわずかなものですけれど、昔の建物からみると、立派すぎるほどの巨大な高層建築になった今日の「太陽の家」も、実はその礎は名もない人々の寄付によったものであることを、私はいま噛みしめています。 (中略)
中村博士の大苦闘とともに、十年の歳月は早く来てしまいましたが、さてこれからの事業は大きくなっただけに、またいろいろな試練に遭うことは当然でしょう。またまた辛い時がくるかもしれませんが、そんな時は、私は理事の一人として、十年前に、「がんばってくださいよ。成功させてくださいよ」と言って、五百円紙幣をにぎらせてくれたあの大阪のおばあさんの顔を思い出すことにしようと思います。
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