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中村裕博士と中村語録
 太陽の家創業者の中村裕(ゆたか)博士は、1984年(昭和59年)7月23日57才の若さでこの世を去りました。84年7月28日午後1時から別府中央葬儀社で行われた、中村裕博士の葬儀には約3千人が参列し、国内外から約3千5百通の弔電が届きました。そのあいさつや弔辞からお人柄が偲ばれます。(肩書きは当時のものです。)
中村裕博士 中村裕博士、国立別府病院屋上にて

「中村先生は単に大分中村病院の院長、太陽の家の理事長、創設者というだけでなしに、本当に障害者あるいはもっと大きく言えば福祉というものの考え方を切りかえてくださった方です。」
(故井深大氏:葬儀委員長、ソニー(株)名誉会長、太陽の家会長)

開設時の太陽の家 太陽の家の表札を掲げる(白衣が中村博士)

中村博士と当時の工場長「先生の身体障害者リハビリテーションにかける情熱と卓越した発想、そして行動力は超人的なものであり、その偉大な功績は日本国内はもとより世界の認めるところであります。」
(平松守彦氏:大分県知事)

「あなたは20年そこそこの短い間に、何人もの達人が一生涯かけても、やりきれないようなたくさんの大仕事を次々とみごとにやり遂げられました。」
(故葛西嘉資氏:日本身体障害者スポーツ協会会長)

「障害者に対するあの独創的な素晴らしいお仕事ぶり、お家でも本当にいいだんな様、お父様で、年老いたご両親には親孝行な息子さんでいらっしゃいました。」
(秋山ちえ子氏:評論家)

85年10月5日行われた太陽の家創立20周年記念式典では、玄関前に中村裕博士の銅像が建立され、除幕式が行われました。銅像には次のように書かれています。

中村裕先生の顕彰について
身体障害者に「保護より働く機会を」と提唱。自ら太陽の家の創設に尽力し、その職能開発と職場づくりをライフワークとして近代産業を導入するなど、太陽の家を輝かしく発展させた業績は社会の感動と信望を集めた。また、わが国における身体障害者スポーツの振興について先駆的役割を果たすとともに、広く国際的に医学及び職業リハビリテーションの分野において、その重鎮として奔走するなど偉大な指導者として敬愛された。昭和59年7月23日没 正五位勲三等瑞宝章に叙される。
昭和60年10月5日

現在の中村裕博士銅像 7月11日(左より)中村廣子夫人、上野征夫三菱商事太陽会長、畑田和男太陽の家理事長

 また、今年7月銅像のバックに幅約14メートル、高さ約4メートルのシーリングボードが建てられ、銅像周辺がきれいに整備されました。

 中村裕博士が亡くなって、今年で19年の年月が経ち、太陽の家でも実際に博士を知る人は少なくなりました。太陽の家にある書籍や多くの資料から、その信念やお人柄が偲ばれます。多くの業績を残された中村博士は、また多くの言葉を残しています。太陽の家の理念である「保護より機会を」「世に身心障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」をはじめ、約20年経った今にも通じる「中村語録」を一部紹介します。

別府の福祉工場開設時わが国においては脊髄損傷患者の在院期間はほとんど数年以上にわたり、就職率はゼロに近い。脊髄損傷者の近代的なリハビリテーションは、患者が早く退院して社会復帰し、有給就職してこそ終わるものであることを強調したい。
(65年 現代外科学大系第44巻A運動器1)

頸髄損傷者の職業リハビリテーションはまことに困難であるが、全く不可能ではない。医師やパラメディカルの人々が頸随損傷者のゴールを始めから「雇用」にかかげ、患者のMotivationを促進すべきである。
(79年9月 第11回医師卒後研修会講義)

ソニー・太陽(株)日出工場 三菱商事太陽(株)

なぜ身障者は一般社会から通勤できないのかと溜息がでるのです。大施設に身障者をつめこむ施設第一主義の時代はもう終わりにしたいものです。身障者の自立のための技術を深め、就労を促進し、保護より機会を与えるべく方策をたてねばなりません。
(74年11月 第2回障害者職業リハビリ研究会記念講演)

長年ずっと社会に生活していて、いきなりある時点でもう年寄りになった、障害者になったからといって、急に社会から離れ、どんなに冷暖房が整った所にいても、決して幸福ではないということを、私は太陽の家の運営をしていてよくわかります。施設にいることは、決して幸福なことではないとよく知っていてください。そういう意味で今後はだんだんと脱施設といいますか、いわゆる日本の施設万能主義は終わらねばならないと思います。
(79年7月 これからの福祉と教育 大分県小中学校校長会講演)

新作業棟太陽の家は身障者の労働と日常生活のすべてが行われる総合環境である。したがってここには身障者について検討されなければならない、およそあらゆる種類の問題が集約されて存在する。
(69年6月 工芸ニュース第36巻6月号)
はじめは身障者だけでやっているのだということが誇りであったが、最近は身障者と健常者がまじった社会を作るべきだ、そして最後には太陽の家なんかなくなってしまえということを目標にしています。
(76年10月第13回九州地区肢体不自由教育研究大会講演)

これからの教育は、人間らしい人間を育てるようになる必要があります。その意味で福祉施設はただ身障者の世話をするというだけでなく、今後教育の場として人間的な情緒豊かな人を育てあげる場としての使い道があるのではないでしょうか。
(82年 教育と福祉 別府市教育委員会主催第4回文化講演会)

障害者は健常者以上にレジャー・レクリエーション・スポーツ活動を必要としている。たしかに近年記録中心の障害者のスポーツ大会は世界各地で展開されているが、競争的スポーツに参加できない多くの人が取り残されていることを忘れてはならない。
(84年 第1回国際障害者レジャー・レクリエーション・スポーツ大会報告書)

車いすツインバスケットボール ローリングバレー
身障スポーツは他の機能訓練と異なり、自主的に本人の意志に基づいて行うものであり、身障者の健康の保持・増進と積極性・社会性を持たせる上で優れている。また、健常者は一般的に身障者の労働力を過小評価するきらいがあるが、彼らの能力を再認識させるにもよい機会である。
(75年 総合リハビリテーション第3巻第4号)
大分国際車いすマラソン大会にて(左端)中村博士 大分国際車いすマラソン大会

僕は、坂を登るのを手伝う時は、車いすの人に荷物を持ってもらう。そのほうが楽だからね。登りきったら自分で持つ。持ちつ持たれつの関係がいいんです。チャリティーの対象としてだけ身障者を見るのは間違いなんです。
(84年4月 UゆうFree Paper for University Student Vol.4 No.4)


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